ゲノム情報に基づく不当な差別的取扱いの禁止に関する法律(案)に対する意見
2026年2月3日
【意見の要旨】
ゲノムの変異は、すべての人に例外なく存在する多様性の一部であり、決して個人の価値や能力を測る指標ではない。ゲノム医療の進展は、個々の体質に合わせた最適な治療を可能にする「希望」であるが、一方で「知る権利・知らないでいる権利」への配慮など、その扱いは今なお医療現場でも試行錯誤が続く繊細な課題を孕んでいる。そうした情報が医療の場を離れ、社会的な選別の道具として転用されることは、断じて許されない。本法律の策定は、誰もが医療の恩恵を等しく享受し、同時に不当な差別を未然に防ぐための極めて重要な一歩である。差別の禁止という重い責務を果たすためには、ゲノム情報を個人の尊厳に関わる「基本的人権」として捉え、あらゆる分野において、ゲノム情報を理由にした不当な区別や排除を徹底して禁ずる姿勢を明確に示さなければならない。医療の発展に寄与すべき情報が、社会における「選別」へと悪用されることのないよう、患者・市民の権利を確実に擁護し、未来への不安を安心へと変える法律となることを強く要望する。
1. 法律の定義および用語の明確化について
法案における基本概念の定義は厳密、かつ市民に理解しやすいものにするべきである。
- 「不当な差別」の具体的定義: 「正当な差別」は存在しない。障害者差別解消法に倣い、何が不当な差別に該当するのかを基本方針やガイドラインで具体的に示すべきである。
- 「ゲノム情報」と「疾患」の区分: 「塩基配列の特性」で定義される疾患はごく一部にすぎず、また、遺伝子変異が必ずしも発症に直結するわけではないという科学的事実への配慮が欠けている。ゲノムと疾患の関係性について、専門外の市民にも理解できるよう補足説明を設けるべきである。
- 用語の簡素化: 同じ定義の文言が何度も出てくる、といった冗長な表現を整理し、広く一般市民にとって読みやすく理解しやすいものにするべきである。
2. 現状の遺伝に関する医療の実態を反映した制度設計
法案が前提とする「良質な遺伝医療」と、現在の医療現場には大きな乖離がある。
- 体制不備の解消を国の責務に: 国内の認定遺伝カウンセラー数は447人(日本認定遺伝カウンセラー協会2025年4月現在)と圧倒的に不足しており、医師等医療従事者の知識不足も課題である。国の責務に、医療従事者の教育および質の向上を図る取組を義務規定として追加すべきである。
- 「開示の要件」からの除外: 遺伝カウンセリングは遺伝学的検査の受検を前提としたものではなく、また、現状、質の高いカウンセリングが保障されていない中で、カウンセリングの提供を「(例外的に開示を認める)適用除外の要件」とすることは、制度として破綻しており、認められない。
3. 保険・雇用分野における「例外規定」を作らないこと
- 非専門家への開示リスク: 保険会社や企業はゲノム情報を正しく解析・解釈する能力を持たない。解釈を誤るリスクがある者にゲノム情報を開示する合理性はない。
- 任意性の原則: 遺伝学的検査は本人の医療上の必要性に基づき受検するものであり、第三者に強制されたり、経済的利益(保険料の割引)のために利用されたりすべきではない。
- 自発的開示の禁止:雇用や保険において「選別のための自発的提示」を認めれば、実質的に提示しない者が不利益を被る「事実上の強制や差別」に繋がる。ゲノム情報に優劣をつけることは非科学的かつ優生思想そのものであり、断じて認められない。
- 雇用分野での取得の禁止(国や地方公共団体等も含む):
- 本人が配慮を必要とする場合であっても、医学的診断や現在の健康状態の報告で十分であり、その根拠となる「生来固有のゲノム情報」までを使用者に提供する必要性は認められない。
- ゲノム情報は厳格な情報管理体制が求められるが、それに対応できるのは大企業など一部の事業所だけであり、管理体制の整っていない中小零細企業などで漏洩が起きることは容易に想像できる。
- コンプライアンス意識やゲノムリテラシーが高くない企業においては、情報開示が「採用忌避」や「不当な待遇」に直結するリスクが高い。
- 地方都市や小規模コミュニティにおいては、一度流出したゲノム情報は本人だけでなく「一族」に対する差別や偏見として定着しかねない。職域での情報収集を認めることは、地域社会における基本的人権の侵害を助長する。
- 保険分野での取得の禁止及び事業活動での利用の禁止:
- 保険で考えられている「遺伝性疾患」の定義が、医学的な観点からは正確性を欠いている。遺伝子変異が直ちに発症につながるわけではなく、症状も多様である。現時点で症状が発現しているか否かにかかわらず遺伝子変異=確定診断となる難病患者やその家族が、一律に保険から排除される事態を強く危惧する。
- 遺伝性疾患の特性は血縁者と情報が共有されていることである。個人の自発的開示を認めることは、家族の情報の開示にもつながる。
- 医療の発展は目覚ましく、現在治療法のない疾患でも10年後には治療法が開発されることも珍しくない。こうした中で、ゲノム情報によって保険の引き受けを区別することは合理性が無い。
- 予防切除が論点に上がっているが、ゲノム情報の利用と保険給付の問題は全く別問題である。医療として行った予防切除やその他の医療行為に対して保険金を支払うかどうかは、商品設計の問題であり、保険会社がゲノム情報を利用する必要性はない。
- 予防切除を「する」か「しない」かは個人の判断であり、将来の医療費や保険会社の給付金額削減のために受けるものではない。
4. 社会的な差別防止と相談・救済体制の整備
特定の経済活動(保険・雇用)に偏らず、より広範な社会的視点が必要である。
- 生活圏における差別禁止: 個人にとって極めて深刻なのは結婚、妊娠、出産、進学といった社会生活上の差別である。これらを含むいかなる差別も許されないことを明文化すべきである。
- ゲノム情報による差別に特化した相談窓口の設置:ゲノム情報による差別には様々な類型が考えられる。これに対応するためには専門的な知識やスキルが必要である。自治体間の対応の格差をなくすためにも国が設置主体となり、そこに様々な専門職(医師や看護師、心理職、福祉職、法律家等)や、ピアサポーター、患者団体等の市民を配置した専門窓口を作るべきである。
- 教育の重要性:「差別」の問題の根底には「人権」への理解の欠如があり、差別をなくすためには「人権尊重」をベースとした遺伝教育が必要である。国が予算を組んで、子どもから大人まで、幅広い対象に向けた教育・啓発を行うことを要望する。
- 国内人権機関の設置:差別の問題を扱う上で、人権救済機関として独立した「国内人権機関(NHRI)」の設置を求める。差別の問題は、話し合いによる解決が望ましく、和解や仲裁に重きを置く第三者機関の存在は双方にとってメリットが大きい。日弁連からも意見書が提出されている。https://www.nichibenren.or.jp/library/pdf/document/opinion/2014/140220_5.pdf
5. システム監視の強化
-
情報管理システムの監視: 全国医療情報プラットフォームの構築により、ゲノム情報が本人の意図しないまま保険会社などへ流通する懸念がある。マイナンバーとの紐付け禁止の徹底とともに、システム設計段階からの厳格な管理を求める。
6. 結論
ゲノム情報は、その人の「変えることのできない遺伝的特徴」であると同時に、血縁者とも共有される究極の個人情報である。この情報の利用は、一人ひとりの健康を支える「医療の場」に限定されるべきであり、社会のいかなる分野においても「人の選別」や「格差の正当化」に利用されることは、断じて許されない。
本法律の真の役割は、遺伝的な特徴を理由に個人を排除し、不利益を強いることは基本的人権の侵害であると明確に定義することにある。 例外規定によって差別を事実上容認するようなことがあれば、それは人権を擁護する法律としての存在意義を失うばかりか、国民にゲノム医療への忌避感を抱かせ、医療の発展そのものを阻害することにも繋がりかねない。
本法案が、差別を助長する一切の例外を排除し、誰もが生まれ持った特徴に関わらず、等しく尊厳を持って生きられる社会を実現するための揺るぎない法的基盤となることを、患者・市民の立場から強く要望する。
【患者・家族参加者(五十音順)】
井上恵子
内田絵子
甲斐寛人
岸紀子
久下明美
齊藤嘉子
妹尾みどり
高橋祐子
村上利枝
若狭好
【要旨取りまとめ】
井上恵子
【監修者】
今村恭子(一般社団法人 医療開発基盤研究所 代表理事)
栗原千絵子(「臨床評価」編集長)