モデル法案雇用分野
モデル法案雇用分野における論点とステークホルダーの意見
雇用におけるゲノム情報に基づく不当な差別的取扱いの禁止に関する法律
第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、良質かつ適切なゲノム医療を国民が安心して受けられるようにするための施策の総合的かつ計画的な推進に関する法律(令和五年法律第五十七号。以下「ゲノム医療推進法」という。)の基本理念に基づき、国民の生活における本人およびその血縁家族の生来固有のゲノム情報に基づく不当な差別的取扱いを防止することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において、「生来固有のゲノム情報[1]」とは、生まれながらに固有で子孫に受け継がれ得る個人の人の細胞の核酸を構成する塩基の配列若しくはその特性又は当該核酸の機能の発揮の特性に関する情報をいう。
2 この法律において、「遺伝学的検査[2]」とは、単一遺伝子疾患の診断、多因子疾患のリスク評価、薬物等の効果・副作用・代謝の推定、個人識別に関わる遺伝学的検査などを目的とした、核およびミトコンドリアゲノム内の、その個体が生来的に保有する遺伝学的情報(生殖細胞系列の遺伝子解析より明らかにされる情報)を明らかにする検査をいう。
3 この法律において、「遺伝カウンセリング[3]」とは、十分な遺伝医学的知識・経験及びカウンセリングに習熟した医師若しくは医療従事者、又は十分な臨床遺伝学の専門的知識・経験を持ち、本人及び家族等の心理的・社会的支援を行うことができる者が、本人及び家族等の遺伝学的検査とそれを含む事業全般に関する疑問や遺伝性の体質等をめぐる不安又は悩みの相談に答えることによって、今後の生活に向けて自らの意思で選択し、行動することができるように支援し、又は援助することをいう。
4 この法律において、「労働者」とは、労働契約法第二条第一項に規定する労働者をいい、「使用者」とは、労働契約法第二条第二項に規定する使用者をいう。
[1] ゲノム医療推進法(ゲノム情報の定義)を参照
[2] 日本医学会「医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン」(ヒト遺伝学的検査)を参照
[3] 個人遺伝情報保護ガイドライン 「遺伝カウンセリングの定義」を参照
「第二条 第四項」における論点
論点1 法案が適用される会社規模について
第四項においては、労働契約法の雇用契約の定義を引用しており、よって公務員等は適用除外となる。本モデル法案は雇用関係における労働者に対する差別の具体的な禁止について定める法律であることから、適用範囲を全国民に拡大するのではなく、差し当たり民間企業を対象とする規定を策定し、公務員等については、本モデル法案を参照する別途の法律で同時に定めることとした。
その上で、中小企業においては、大企業と比べて、従業員が遺伝性疾患を発症した後に配置転換等を活用して雇用を継続することがより困難であることが考えられる。また、単一の従業員の疾病発症が企業経営に深刻な影響を及ぼし、場合によっては経営破綻に至る事例も想定されることから、ゲノム情報の利用可否が中小企業に与える影響は相対的に大きいと考えられる。さらに、遺伝子差別に関する法令の理解や遵守のために必要となる体制整備やコンプライアンスコストについても、大企業に比して中小企業にとっては相対的に重い負担となることが予想される。このように、ゲノム情報の利用に関する規制は、中小企業に対してより大きな影響を及ぼす可能性がある。
以上のことから、本モデル法案においては、従業員数〇〇人以上の企業とその労働者に適用対象を限定するなど、一定規模以上の事業所を対象とする規定を策定した。しかしながら、適用対象を限定した場合には、対象事業所の線引きの難しさに加え、法の運用の煩雑化等の諸問題が生じることが予想される。そこで、中小企業には規制を適用しない、あるいは適用までの猶予期間を設けるべきか否かについて、ステークホルダーに意見聴取を行った。
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「守る側ではなく、守られる側から考える」ことが重要であると考える。規模限定は守る側(企業)の都合であり、最も弱い立場の労働者が制度から排除されることのない仕組みでなくてはならないと考える。
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中小規模の事業者には負担が大きいと思う。
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どの様な規模の企業であっても、差別は許されない。一律に適用できる為の啓発活動などが必要ではあるが、これからゲノム情報というものが個人情報として認知されていくのならば、法律について広く区別なく知らされるべきであるし、もし差別が生じれば、規模に関係なく罰則が与えられるべきだと考える。
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正確な線引きが難しいと考える。
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小規模事業者にとって、新たな法令遵守に伴う事務負担やコンプライアンスコストは非常に重い。企業規模によって「差別が許されるか否か」が変わることは、人権保障の観点から見て論理的整合性は無い。米国を参考にしつつ 、まずは全企業を対象とした理念法的な性格を持たせ、罰則規定の適用については、周知期間や中小企業へのガイドライン整備を先行させるなど、ソフトランディングが望ましいのではないか。
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一律施行は避け、中小企業には数年間の「施行猶予(モラトリアム)」および「適用除外を含む段階的な導入」が妥当だと思う。日本の企業の99%を占める中小企業にとって 、大企業のような「余裕のある人員配置」という状況は、無い。労働者が遺伝性疾患を発症したり、そのリスクが判明した際、代替要員がいない中で「安全配慮義務」と「配置転換の困難さ」の板挟みになることは、想像に難くない。「コンプライアンス対応に要するコスト」を無視できない。
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会社規模によって選別されるべき問題ではないと思う。
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猶予期間を設けた場合、ボーダーラインあたりの企業にいらない調整を与えてしまうことが懸念される。また、日本の企業における中小企業の割合があまりに高いことを考えると、猶予期間を設けることは逆に意味がない状況を作ってしまうのではないか。
第二章 生来固有のゲノム情報の取扱い禁止
(生来固有のゲノム情報の取扱い禁止)
第三条 使用者は、労働者及び求職者に対し、本人およびその血縁家族の生来固有のゲノム情報の開示、使用、第三者への開示又は、遺伝学的検査の受検の要請並びに遺伝学的検査結果の提供を求めてはならない。ただし、職業上の特別な必要性がある場合、又は、労働者の安全健康を確保する必要が認められる場合において、労働者の同意があり、かつ、使用者が労働者に対して遺伝カウンセリングを受ける機会を提供したときは、この限りではない。
(採用)
第四条 使用者は、採用に際し、求職者本人およびその血縁家族の生来固有のゲノム情報を利用してはならない。
(均等待遇)[4]
第五条 使用者は、労働者本人およびその血縁家族の生来固有のゲノム情報に基づいて、賃金、労働時間その他の労働条件において差別的取扱いをしてはならない。ただし、配置転換については、職業上の特別な必要性がある場合、又は、労働者の安全若しくは健康を確保する必要がある場合において、労働者の求めに応じて遺伝カウンセリングを受ける機会を提供したときは、この限りではない。
[4] 労働基準法三条を参照。尚、「ただし、配置転換については」以降の規定については、各分野の有識者との議論をもとに追記した。
「第二章 生来固有のゲノム情報の取扱い禁止 第三条から第五条」における論点
論点2 労働者および求職者の自発的なゲノム情報の提示について
本モデル法案では、労働者および求職者が自発的にゲノム情報を提示する行為についても、一律に禁止する規定を策定した。しかしながら、就職、昇進、昇格等の局面において、働く側が自らの意思に基づきゲノム情報を提示したいと考える場合が生じ得ることも予想される。そこで、労働者および求職者による自発的なゲノム情報の提示を認めるべきか否かについて、ステークホルダーに意見聴取を行った。
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雇用関係には力関係が働き、「自発的」に見えても実質的強制となる。提示を許すと、採用・配置・昇進等における差別や排除を助長すると考える。
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「自発的」と言いつつも自発的に提出することを強要される(強要されているように受け止める)ことが起こりかねない。また、自発的に提出した情報が正しいと保障できない。それにどのような遺伝子検査を受けたかによって、検査の精度に違いが生じる可能性がある。更に、いくら費用が安くなってきているといっても、検査を受けることができる人、経済的に不可能な人が出てきて平等ではない。
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ゲノム情報はまさに生まれながらにして決定づけられたものであり、本人が変えることが出来ない情報という点において、差別的な扱いを助長し得る環境を作らないことが重要。また、自発(任意)であっても、ゲノム情報によっての差別化(優位性)が拡がる危険性を孕んでいる。
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「自発的」などという条件は、いくらでも偽装できると考える。条件つきの法律は抜け道を作れてしまうのではないだろうか。
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ゲノム情報の提出が自由(自発的)であっても、『ゲノム情報の提出がない=何かあるかもしれない』という思考が働いてしまうこと、それによって半強制的になってしまうことから、禁止されるべきだと考える。また、雇用においてゲノム情報が有利に働くことがあるということは、反対から見ればゲノム情報が不利に働く可能性があるということにもなり、本人がどうしようもないゲノムという段階で不利益を受ける可能性がある世の中は、純粋に恐ろしく感じる。
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自発的だとしても、他の雇用希望者の動向を見ての判断が想定され、結果的に自発的と言えないことが常態となる恐れが大きいと思う。最もセンシティブな個人情報が家族の分も含めて流出される危険が大きすぎる。また、近年のAI技術で改ざんの可能性は無いのか、という懸念もある。採用を検討する側としても、特に小規模事業者にとっては、得た情報の取り扱い等、負担が大きすぎる気がする
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原則として「禁止」の立場を維持しつつ、例外規定の厳格な運用を行う。①形式上は「自発的」であっても、就職活動や昇進争いの中では実質的な「競争上の圧力」となり、提示しないことが不利に働く「間接的な強制」が生じるリスクがある。②ゲノム情報を「強み」としてアピールすることを許容すれば、本来の能力や努力ではなく、生まれ持った素質で人間を評価する「優生発想」を助長しかねない。③「本当に自発的か」を事後的に検証することは極めて困難であり、管理コストや紛争リスクを考えれば、一律に禁止する方が企業のコンプライアンス上は明快。
論点3 使用者のゲノム情報利活用の是非について
本モデル法案では、職業上の特別な必要性がある場合、又は、労働者の安全若しくは健康を確保する必要がある場合において、労働者の求めに応じて遺伝カウンセリングを受ける機会を提供する場合にのみ、使用者がゲノム情報の利活用を認める規定を策定した。しかしながら、役員や幹部候補は一般的に高額な報酬が支払われ、高度専門職は長期的育成を前提する場合が多く、短期間での代替が困難である。このような重要ポストに立つ人材が病気等で突然職責を果たせなくなる事態は、企業全体のみならず、他の労働者や取引先にも波及的損害をもたらしうる。よって、ゲノム情報を用いて長期に渡り職責を果たせる確率を高めることは是認されるべきかについて、ステークホルダーに意見聴取を行った。
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経営合理性は人権制限の正当化根拠にならない。ゲノム情報は能力評価ツールではない。将来の可能性による選別を招くため、効率性を理由として不確実な情報で人を判断することはあってはならないと考える。
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遺伝子検査でどこまで正確に能力を見抜くことができるのか信頼性が低い。遺伝子検査の結果を判断する人事担当者の能力が一定ではない。年齢、健康診断結果、休職歴は事実や既に結果が出ている問題だが、遺伝子検査で得られるのは「可能性」の部分が多いと思う。ゲノム情報は素因であり、それが発揮されるかどうか不明。発現しやすいとしても、実現できないことも多いのではないか。また、「ストレス耐性」の遺伝子はあっても、日常のなかで鍛えられなければ耐性が高くなるものではない。遺伝子に環境要因や経験が加味されてはじめて能力になると考える。
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人をコストとして見ることがさらに進み、差別を制度化して労働者の尊厳を破壊する事になる可能性が強い。
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経営合理性や組織効率性とゲノム情報の利用は結びつくものではないと考える。年齢、健康診断結果などで人事判断していることも差別の一種である。企業の安定は誰かの不幸から生み出すものではなく、ゲノム情報の利用は企業努力ではないと考える。
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人をゲノム情報で判断するようになるのは、恐ろしいことだと感じる。ゲノム情報は現段階でもまだ解明されていないことが山ほどある中で、果たして得られるゲノム情報がどこまで正確なのか、という問題もあるし、得られたゲノム情報で『より良いもの』を求めるようになった時、ゲノム情報で不利益を受ける人はいずれ世の中で『必要のないもの』と判断されることになりかねない。リスクヘッジという点においては、様々なリスクを排除しておきたいという経営者の意向は理解できるが、いくらゲノム情報で多少のリスクを減らすことはできても、突発的な事故や事件、災害などでリスクを完全に避けることはできないだろうし、だからこそ、リスクに備えて頭を働かせ、常日頃からどうリスクを捉えておくのか、どう人物を観察しておくのか、人間としての能力を磨くことにもなり、結果的に人が育っていくのではないかと考える。遺伝的データと人間としての賢さが必ずしも一致しないところが人間の面白いところでもあり、世の中の面白いところでもあると考えているので、ゲノム情報で合理性や効率性をはかろうとすることが恐ろしく感じる。
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役員や幹部候補など、代替が困難な重要ポストにおいて、突然の病気による職責放棄は企業や取引先に多大な損害を与える 。将来の健康リスクを「情報」として管理することは、組織運営の安定化に資するという側面は否定できない。しかし、健康診断結果とは異なり、ゲノム情報は本人だけでなく血縁家族の情報も含む極めて機微なものである。これを合理性の名の下に利用することは、憲法が保障する法の下の平等や人間の尊厳に抵触する恐れがあある。つまり、「企業の利益」「株主の利益」は、法の下の平等よりも勝ることなのか? という愚問(=答えは自明な問い)に至るため。限定的な運用が適当。
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採用時にゲノム情報を利用することは、望ましくないと考える。人の特性、能力は、成育歴、環境、経験などで育まれる要素も大きく、ゲノム情報だけで判断されるべきものではないと思うからである。そもそもゲノム情報が判断材料に利用されるのは、優性思想を助長しかねず、不利益を被る個人が特定されてしまうと思います。現時点では慎重にならざるを得ない。ただ、従業員の配置を検討する際に、高度専門職、多人数の輸送など、特定の業務への配置には、一定の配慮をする必要が出てくることは理解できる。
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労働者の安全と健康を理由にした場合のゲノム情報利活用に関する懸念について、遺伝子差別に関する公的議論において、ある企業が「遺伝子検査で熱中症リスクを判定できるサービス」を開発し、工場や建設現場で導入する動きが出ているという事例が議論の俎上に上った。労働安全衛生上の配慮の観点から必要であるという肯定的な意見と、利用の仕方を誤ると大きな差別を引き起こしかねないという懸念の意見があり、意見の一致をみなかった。このように労働者の安全や健康保護という一見正当に見えるゲノム情報の利活用に対する不当な差別の線引きは難しい。だからこそ立法化が必要であろう。
(参考)融資の場面における企業の自発的提示によるゲノム情報利活用への見解
雇用において自発的に提示されたゲノム情報の利活用の是非が争点となるのは、企業内部の労働環境や労働者に対する処遇などに留まるものではない。従業員の健康への配慮の取り組みがなされているか否かのいわゆる健康経営の状況は、企業評価の一要素として金融機関の融資条件にも勘案されている。そのため、企業側から自発的に提示された遺伝学的検査結果を、融資の判断材料として参照される可能性も考えられる。この点に関し、金融機関に意見を聴取した。
- 企業の「健康経営」や「人権・環境への配慮」は、当機関の与信判断において重要な非財務情報と位置づけているが、現状は主として「ネガティブスクリーニング」、すなわち重⼤な人権侵害等がある場合に取引⾒直しを検討するためのリスク情報として活⽤しており、個別与信のプラス評価に直結させる運⽤は限定的である。ゲノム情報を評価軸とした場合、当該企業において事実上の検査強制や優⽣的な価値観の競争を誘発し得うる点について、当機関の人権方針が掲げる「人権への負の影響の防止・軽減」と整合しない可能性といった別種のリスクを⽣じる懸念もあることから、たとえ企業側が自発的に提示したとしても、融資判断において従業員集団のゲノム情報を「健康経営の証拠」や⽣産性の裏付けとして、そこまでの重みを持って評価することは実務上、難しいのではないかと考える。
第三章 罰則[5]
第六条 次の各号のいずれかに該当する者は、六箇月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。
一 第三条から五条の規定に違反した者
[5] 労働基準法百十九条を参照
第三章の懸案事項:罰則規定について
・罰則規定を設けるべきかについては議論の余地がある。
附則
(施行期日)
第一条 この法律は、公布の日から起算して○年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。
(検討)
第二条 この法律の規定については、この法律の施行後○年を目途として、この法律の施行状況等を勘案し、検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする。
特記事項:相談窓口や第三者委員会の設置の案について
当初、雇用における生来固有のゲノム情報に基づく不当な差別的取扱いに特化した相談窓口や、第三者委員会の設置を規定する案が提出されたが、現時点においてその案は採用しないこととした。理由としては、現状、配置転換や解雇などの不利益取扱いを受けた場合は、都道府県労働局及び労働基準監督署等に設置された総合労働相談コーナーにおいて相談が受け付けられるなどの対応が想定されるところ、生来固有のゲノム情報に基づく不当な差別的取扱いについても、そのような既存の枠組みで対応可能と考えられるためである。