プロジェクトの全体構想

プロジェクトの達成目標

 諸外国では、人のゲノム解析と遺伝情報の雇用や保険その他の領域における差別的利用に対する法的禁止や規制などの法整備が以前より進んでいる。しかし、日本では遺伝子差別の問題を含め生命医科学技術の発展がもたらすELSIへの対応が大幅に遅れている。本プロジェクトでは、ゲノム情報の非医学的領域での公正な利活用の促進を図るために欠かせないゲノム情報ELSIについて取組む。本邦においてこのようなゲノムELSI対応の遅れ(ラグ)を生じさせている文化的・制度的・政治的諸要因を洗い出し、ELSIラグを解消ないしは埋めていく仕組みや方法論を人文社会科学と自然科学の知を結集するとともにマルチステークホルダー間の対話と連携により構築する。特に保険や雇用の領域でのゲノム情報の解明と利活用に付随して予見される遺伝子差別や差別的使用を対象とし、日本の文脈に根差した遺伝情報プライバシー保護と差別的使用に対する法整備を学際的に検討し具体的な政策提言(モデル法の策定)を行う。根源的な問いとして差別が生じる発生機序の解明、並びに見解が対立する利活用が正当化される「合理的区別」と法的に禁止すべき「不当な差別」の境界をめぐる公正の規範的価値対立の議論動向を整理し、その知識翻訳(言説化)によりステークホルダー間の対話促進並びに市民的議論の活性化を図る。
 本プロジェクトにおいては、遺伝子差別への法的処方箋を従来の日本型の行政主導によるのではなく、マルチステークホルダー間の対話と協業により国民的議論の活性化による熟議を経て、法とその他の社会規範や効果的なナッジ等の人々の行動変容を促す行動科学の手法の導入によりハイブリッドな法政策による革新的な法整備のモデルを共創する。
またゲノム情報の利活用のELSIをめぐる国民的リテラシーを高め議論を活性化するために中等教育レベルからのゲノムELSI教育の教材並びに教育実践方法論の構築と普及に取り組む。
 さらには法的禁止や規制の限界や副作用(意図せざる負の影響)を踏まえて、どのような手段や方法でELSIに対する処方箋を法制度に実装していくかを自然科学と人文社会科学の学術的洞察や方法論を結集して学際的に検討する。そして、それらの要点をわかりやすく言説化し、国民的な熟議にもとづいた議論の活性化を図り法整備と政策形成に繋げていく。
 個人の遺伝情報保護モデル法を策定するとともに、雇用や保険の領域における遺伝子差別等の個別ELSIへの具体的な法制度的処方箋のモデルを創出し、遅れているELSI対応のラグといった法整備の遅れを解消に挑む
 ゲノム解析と遺伝情報の利活用の普及により生じるであろうELSIを予見し、法規制の副作用も想定しながら、今後起こりうるELSIに対応できる法制度の事前的整備の方向性を模索する。これらの実践をもって革新的な政策基盤を構築する提言を行いRRIの営みの促進を図る。
 

研究開発の対象・テーマ、その意義と背景

研究開発の対象・テーマ.pdf
 

プロジェクトが考察する根源的問い

 米国では上述の連邦法による遺伝情報の雇用と医療保険での利用が禁止されるまで10年以上の議論が行なわれてきた。禁止法の副作用(悪影響)や遺伝情報に基づく正当化される合理的な区別と禁止されるべき不当な差別をめぐって人々の間で見解の鋭い対立が見られた。その背景には、遺伝情報のどのような利用は平等で公正な扱いなのかをめぐる価値対立があるからに他ならない。本ELSIの企画調査でも明らかにしたように、根源的な問いとして、遺伝子格差と差別、生命へのゲノム介入という個々人の価値観や倫理観にかかわる問題であるがゆえに学術的にも見解が分かれる論点が複雑に交錯していることや、当事者そして社会のステークホルダー間での利益対立のみならず価値観の対立によって有意義な対話が阻害され、社会的な合意形成に基づく法整備が阻害されていることが想定される。
 また遺伝子差別禁止法の導入をめぐっては、生命保険契約における保険会社と被保険者間の情報の非対称によるいわゆる「逆選択」という保険領域で回避しなければその制度自体が崩壊してしまう可能性のある構造を生み出す問題点が指摘されてきている。また雇用の場面でも遺伝子検査結果を本人は知っているが、雇用主や同僚労働者は禁止法によって遺伝子検査結果による将来の健康状態に対する予測の根拠になる情報にアクセスできないため、ここでも情報の非対称性を生み、遺伝学的に健康なものから不健康な者への情報の富の再分配を生むという禁止法の副作用(意図せざる好ましくない波及効果)が指摘されてきている。また、人々の社会的な遺伝子格差とそれに基づく差別の是正をどこまでどのような手段で行うべきなのかという問いのみならず、人のゲノム編集技術の進歩により、生物学的な遺伝子格差に対して直接遺伝子を改変する治療や予防がどの程度許容されるのかという問いが人類に突き付けられている。これらの根源的な問いに対しては、何の平等を重視するのか、自己決定の外にあり個々人の意思では制御不可能な不運や格差の是正を法によってどの程度実現するべきかという規範的な問いが存在している。このような政治哲学や社会哲学や法哲学の現代正義論における公正概念や平等をめぐる理論や議論の蓄積を知識翻訳して国民的な議論と対話に落とし込んでいく必要がある。この規範理論レベルの問題考察と議論なくしては、遺伝子差別をめぐる公正な立法や制度設計は行えなく、本プロジェクトでは、法整備にあたって避けて通れない根源的な価値対立などの検討課題を明確化し一般市民にも理解可能な言説化(知識翻訳)を行うことで、ステークホルダー間の熟議と合意形成への道標を築く。
 

プロジェクトの先に見据える将来展望

(1)法政策を立案する段階から様々なステークホルダーと対話を可能とする基盤ネットワークを構築しておくことで、法規制がその目的の点で効果を発揮するとともに、規制の副作用(意図せざる悪影響)を抑制する運用面でのアジュバントとして機能することが期待される。
(2)従来型のステークホルダー間の意見が必ずしも十分反映されていない行政主導の法整備ではなく、本プロジェクトでのマルチステークホルダーとの対話と連携により、法規制の在り方を学際的かつ分野横断的に議論し、研究協力者の協力によるELSI教育の普及や新聞報道等も活用しながら市民レベルでの議論を活性化しつつ、行政や超党派の議員とも連携して法整備を行っていく一つの新たな法整備在り方を創出していく。それは法整備が遅れている他の生命医科学技術のELSIや今後予見される科学技術ELSIへの遅滞ない法整備へと活用できるモデルとなるものと考える。
(3)社会アウトリーチ活動によりELSIに対する市民や特に次世代を担う若者のゲノムELSIの問題意識の醸成やリテラシーの向上を行い、将来的な国民的な議論の活性化が期待される。終了後は、プロジェクトでシーズを撒いて行った中等教育におけるELSI教育を全国的な規模での継続的な展開と普及と自律的な定着を図る。
(4)遺伝子差別を抑制する法整備により遺伝情報のプライバシーが保護され、差別の懸念を払しょくすることにより、より多くの人々が安心してゲノム解析医療や遺伝情報の利活用に協力できる基盤が構築できる。それにより、ビッグデータの集積が加速化され、ゲノム創薬やゲノム解析と遺伝医療のイノベーションが可能となり、テーラーメイド医療・精密医療を促進するとともに、予防的な先制医療が可能となり、医療費や介護費の大幅な削減と、健康寿命の延長につなげることが期待できる。
(5)事業終了後は、京都府立医大と早稲田大学や大阪大学などと、大学院の生命医科学技術のELSI副専攻プログラムを導入し、本プロジェクトに携わった教員により文理融合的な学際教育プログラムの構築を目指す。
 

想定される課題や障壁と、その対応方策

本研究では、ELSI対応の海外調査や海外からの専門家を招聘してシンポジウム、そして市民や当事者団体その他の様々なステークホルダーとのネットワーク構築とコミュニケーション活動を計画している。しかし、新型コロナウイルス感染症の変異株により繰り返される世界的なパンデミックが直ぐには終息することは難しいかもしれず、国際的な集団免疫が獲得されるまでは渡航しての調査や対面での企画やインタビュー等の活動が一定程度制限される。そこで、ZOOM等でのインタビュー調査やZOOMのブレイクアウト機能やウェビナー機能を活用し市民や当事者との対話やELSIカフェや国際シンポジウムなどを開催することで対応を考えている。
またゲノム情報の差別的な利用を制限する団体の自主規制や行政的な指針(ソフトロー)が策定されたことをもって、遺伝情報に特化した立法などの動きが止まってしまうことも懸念される。これに対しては、監督官庁の役人や超党派の国会議員との勉強会などを継続的に実施することでソフトロー規制の限界について議論を忍耐強く行うことで対応していきたい。